CERA LA LUNA

1





 空気が、停滞していた。
 彼がこの部屋に連れて来られてから、止まってしまった時間のように。
 それは、針金で補強された小さなはめ殺しの窓のせいだけではなかった。
 ニケは、後ろ手に金属製のドアを閉めた。すっと胸をはり、養父のリヒャルトに叩き込まれたとおりの「正しい姿勢」をとる。彼女は、窓際の壁に寄りかかって膝を抱えている少年の前に歩み寄った。
 誰もいないはずの背後から、何者かの視線を感じていた。多分、監視カメラの類だろう。
 養い子として評価されるとはどのようなことか、いいかげんうんざりするくらいわかっている。これ以上、育て方がどうの、というリヒャルトの悪口を聞かされたくはなかった。もう一度自分の背筋に意識を向けてから、ニケは、静かに少年の名を呼んだ。
「ルナ。」
ルナは、うつむいたままぴくんと体を震わせた。返答は無かった。
 数日会わない間に、彼は縮んだように見えた。もともと華奢な肩が、とがっている。右手に、クリシュナの後ろ髪をまとめていた組紐が、しっかりと握られていた。
 ニケは、ルナの前に膝をついて両手をさしのべた。汚れてくすんだ銀色の髪をそっとかきあげ、蝋のように蒼白な頬を両手で包んで、自分の方へ顔を向けさせる。淡い水色の虹彩にふちどられた瞳は、鏡のようにニケを映しながら、彼女を見てはいなかった。ニケは、そのままの姿勢で、彼の冷えきった頬に多少なりと生き物らしい温かみが戻ってくるのを待った。それから、再び顔にかぶさろうとする銀髪を耳にかけてやって、その耳に唇を近づけた。
「ルナ……あたしがわかる?」
 銀色のまつげが、ゆっくりと上下した。数秒間、彼の視線が彼女の黒い瞳の上に留まった。石膏像のように硬くひきむすばれていた白い唇が微かに動いて、彼女の名をかたどった。
「……ニケ……」すぐに、何かを怖れるようにルナのまつげが伏せられた。「……また……ゆめ。」
 躊躇なく、ニケはルナを殴り倒した。彼のリアクションを待たずに引きずり起こし、肩をつかんで壁にはりつける。
「痛い?」
「……いたい。」
「これは、夢?」
ルナは、首を横に振った。
 しがみついて嗚咽をかみ殺そうとしているルナをなだめながら、ニケは、――今あたしが突き放したら、こいつは完全に壊れる――と、ぼんやりと考えた。そうしようと思えば壊してしまえるんだ、と思いながら、震えるルナの背を優しくなで続けた。




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