夏の庭




 朝食が済んで、運動の時間になるやいなや、ハンニバルは森へ駆け込んで行った。
 と、見せかけて、彼はすぐにナーサリーの敷地内に駆け戻ってきていた。
 東側の庭の隅に、敷石が少しだけはがれているところがあって、こないだからそこに黒蟻が巣を作っているのだ。ナーサリーのスタッフ達は、虫の類は嫌いらしいので、見つかったらすぐに駆除されてしまうに違いない。見るなら今のうちだった。
 つきまとって色々うるさく尋ねてくるであろうユリシュカは、うまくまいて来た。今ごろ彼女は、塀の外の森の中でハンニバルを探し回っているだろう。今日は、誰にも邪魔されずにゆっくり蟻を観察できる。
 去年の夏、ユリシュカは、よそのナーサリー(よそにもナーサリーがあるなんて、ハンニバルには初耳だった。)から、養母のジュジに手を引かれてやってきた。ユリシュカをはじめて見たとき、ハンニバルは思わず彼女の髪を引っぱってしまった。あまりみごとな金髪だったので、手にとらずにはいられなかったのだ。もちろん、金髪の人間を見たことがないわけではなかった。ハンニバルの養父のトールだって、短く刈ってはいるけどきれいな金髪だった。けれど、ユリシュカのは髪自体が光り輝いているんじゃないかと思えるほどきらきらして美しいのだ。
 そうしたら、ユリシュカは泣いてしまった。綺麗な碧色の目をみひらいてハンニバルを見上げたまま、声も出さず、ただ静かに涙を流した。ハンニバルはびっくりした。そんなふうに泣く子どもを、見たことがなかった。こういうとき、他の子だったら、怒って殴りかかってくるか、泣くにしても大声でぎゃあぎゃあわめきながらつかみかかってくるか、ハンニバルにはかなわない、とわかっていても、とにかく反撃してくる。
 あとで養父のトールが教えてくれたことには、ユリシュカが三歳まで住んでいたナーサリーでは、子どもどうしでケンカをさせないということだった。そのナーサリーには、ユリシュカみたいに綺麗な子どもがたくさんいて、男の子も女の子も体に傷の残るようなケガは絶対にさせないように気をつけて育てられているのだそうだ。運動も、激しいものは禁止らしい。
「すごく『ストレス』がたまりそうなところだね。」
と、ハンニバルが四歳児にしては生意気な感想をのべると、トールは笑って
「そうだな。お前だったら一日もいられないな。」
と言った。
 その夏の間、ジュジはユリシュカに日焼けさせないように、ものすごくつばの広い麦藁帽子をかぶせていたし、薄いけど長袖のカーディガンを着せていた。今年になってトールに
「ここでは少しくらい日焼けしても大丈夫だから、もう少し運動に向いた格好をさせたほうがいいよ。」
と言われて、暑苦しいカーディガンは着せなくなったけど、麦藁帽子の方はあいかわらず馬鹿馬鹿しいくらいつばの広いやつをかぶらせていた。
 ハンニバルは、ユリシュカにはなるべく近寄らないことにした。初対面では衝撃的だった綺麗な顔も、すぐに見飽きてしまった。ちょっとしたことですぐめそめそされるのはうっとうしいし、かさばる麦藁帽子がすぐそばにいるのはじゃまくさい。それに、ユリシュカをそのまんま大きくしたような美人のジュジにトールがデレデレしているのを見るのも面白くなかった。ジュジがなんとなく他の養親たちから外されているのをトールがかばっている、というのものも確かな事実だけれど、でもそれだけじゃないぞ、というのがハンニバルの見解だった。
 ところが、どういうわけかユリシュカの方はハンニバルが気に入ったらしい。
 あずまやのベンチに寝転がってハンニバルが絵本を読んでいると、ユリシュカも寝転がって逆さから絵本をのぞきこんでくる。逆さから見ても面白くないだろうから、仕方なく向きを変えて見せてやる。
 森へ行ってみんなで木に登っていると、その下にユリシュカが立って見上げている。幹にとりついてよじ登る方法がわからないらしい。あまりうらめしそうな顔をするので、仕方なく一番下の枝まで押し上げてやる。
 まだここの子ども達の運動量に追いつけなかったころは、ユリシュカはよく転んだ。泣かれるとめんどうなので仕方なく助け起こし、泉まで連れていって傷口を洗ってやる。
 そんなこんなでハンニバルにはどうしてだかさっぱり見当もつかなかったのだが、どこへ行くにもユリシュカがついてくるようになってしまったのだった。
 ハンニバルも、ユリシュカに二の腕をすりすりなでられて、
「まっくろで、きれい……」
などと呟かれると、さすがに悪い気はしなかった。
 この一年でここでの生活に慣れ、ユリシュカも簡単に転ばなくなったし簡単に泣かなくなった。もともとの気の強さが表面に出てきたのか、他の子とケンカもするようになった。フタを開けてみたら、ユリシュカは、二十人ばかりいる子どもたちの中でハンニバルの次くらいにケンカが強かった。だから、もうユリシュカがついてきても邪魔だと感じることはそんなになくなってきていた。だが、ハンニバルにも一人でじっくり楽しみたいことだってあるのだ。
 幸い、蟻の巣はまだ無事だった。
 かんかんに照り付ける白っぽい陽射しの下で、ざらざらした敷石の裂け目から、無数の黒蟻がぞろぞろと出入りしていた。
 ハンニバルは、そのすぐ傍にしゃがみこんで、じっくりとそのようすを眺めた。
 焼け付くような敷石の上にくっきりと影を落とす蟻たちは、森の中の湿った黒い土の上で見るのとは全く違う生き物のように見えた。と、言うよりは、むしろ生き物のように見えなかった。みっつの球がくっついたような体、不思議な角度に折れ曲がった脚の関節、表面の硬質な感じ……まるで、そっくり同じ形の小さくて精巧な機械のようだった。
――本当に生き物なんだろうか?
 ハンニバルは、好奇心にかられて一匹の蟻を捕まえた。鉛筆でひゅうっと描いたような脚が、ハンニバルの指をファサファサと打った。少しくすぐったかった。と、蟻は体を弧にして、ハンニバルの指に噛みついた。
「いてっ。」
ハンニバルは思わず声をあげた。ぎゅっと指に力が入った。慌てて指を広げると、蟻は地面に落ちた。毛玉が絡み合ったみたいに丸まって、もう他の蟻たちとは違った形になってしまっていたけれども、熱したフライパンのような敷石の上でじたじたともがいていた。
 ハンニバルは、くらくらしながら呆然と蟻を見下ろしていた。
 そして、日ごろナーサリーの教官から教えられていることを思い出していた。
「生き物を殺すときは、中途半端でやめて長く苦しめてはいけない。速やかにとどめをさして、苦しみから解放してあげなさい。」
 しばらくの間、ハンニバルはじっと蟻を見つめていた。その断末魔が早く終わってしまってくれないかと、祈るような気持ちだった。だが、蟻は一向にもがくのをやめなかった。ハンニバルは、そっと手を伸ばして指先で蟻を押しつぶした。ぶつっと何かが弾ける感触があって、蟻は動かなくなった。敷石の上に、小さな黒い染みができた。蟻は、間違いなく生き物だった。
 蟻は少しの間、染みのところで敷石にくっついていて、風に煽られてはたはたと揺れていたが、強い風が吹きつけるとはがれ、飛ばされていった。それを見送ってから、ハンニバルはなんとなく蟻をつぶした右手の人差し指を敷石に二、三回こすりつけた。それから、立ち上がろうとして顔を上げた。そこに、ユリシュカが立っていた。
 ハンニバルは、びっくりして固まったままユリシュカを見上げていた。
 ユリシュカは、泣いていた。
 ハンニバルをじっと見下ろして、はじめてあった日のように声もなく、綺麗な碧色の目から静かに涙をながしていた。
「ごめん……」ハンニバルは、やっとそれだけ言った。「もうしない。」
 ユリシュカは、黙ってうなずいた。それから、ハンニバルに手をさしだした。
 ハンニバルは、右手を出しかけたが、思い直して左手でユリシュカの手を握った。
 ユリシュカは、ハンニバルの手を引っぱって立たせると、ナーサリーの建物の外壁についた水飲み場まで連れて行って、彼の手を洗った。
 それから、二人で熱い敷石の上にぺったり座って、手と水しぶきで濡れた服を乾かした。
 ユリシュカは、じゃまくさい麦藁帽子を脱いでハンニバルの肩に寄りかかっていた。
 ハンニバルは、くっつくと暑いなぁ、と思ったけど、不思議にうっとうしいという気持ちはわかなかった。
 太陽はそろそろ南中しかかっていて、地面ばかり見つめていた瞳に青く光る空が眩しかった。



――END――


瞳子さんに捧げます。
机上の楼閣 8888hit キリ番リクエスト
お題:「ハンニバル君」のショート・ストーリー




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