小さな宇宙

――前編――


 久しぶりだったので、かなりきついように感じたが、あのころは一時間近くかけて登ったこの山道を、気づけば30分で登りきろうとしていた。
 日陰になっていたあたりに、まだ斑に雪が残っている他は、道はほとんど乾いていた。針葉樹の葉先が、わずかに浅緑に染まっている。はじめてこの道を登ったのも、今くらいの季節だった。どこを見渡しても、仲間達と過ごしたあの六年間が思い出される。
 だが、立ち止まったのは、途中で一度だけだった。そこだけは、どうしても素通りできなかった。ルナは、少し身を乗り出して絶壁の底を見下ろした。吹き上げる風が、彼の銀色の前髪を揺らした。
――ここを降りたんだ、アドルフ……。
 今になって思い返すと、改めてそれがどれほど困難な状況だったか身にしみて感じられる。崖から足をすべらせ、なんとか途中の岩にしがみついたニケを助けようと、みんな必死だった。十一歳だった自分達のいじらしさに涙が出そうだった。
 あとは一度も足を止めずに、まっすぐに山上の農場へ向かった。
 出入り口でルナがIDカードを示すと、門衛の目に一瞬不審そうな表情が走った。だが、あとはビジネスライクに手続きを済ませた。見たことのない若いスタッフだった。
 厩舎前の掃き掃除をしていたナカニシが、近づいてきたルナに気づいて顔を上げた。その細い目が一瞬大きく見開かれ、すぐに見慣れた、困っているときのような曖昧な微笑に細められた。ルナの記憶にある彼より、ずいぶん白髪が増えている。ルナは、牧柵越しに小さく手を上げた。ナカニシも、少し戸惑いながら挨拶を返し、牧柵に歩み寄った。
「久しぶり。」
「……ルナか? ルナだな? ……立派になったな。」
「ナカニシさんは、縮んだねぇ。」
ルナは笑って、ナカニシを見下ろした。
「君は、すぐそういう……ナリはともかく、中身はあんまり変わってないな?」
「あはは、バレた?」
「……いくつになった?」
「十六。」
「そうか……」
 ナカニシは、感慨深げにルナを見上げ、ふと視線をそらした。うつむいて首に巻いたタオルで顔をぬぐう。
「変わった子だね、君は……。」
 ルナは、不審そうに二、三度まばたきした。それから、牧柵にひじを乗せて頬杖をついた。
「なんで? どこが?」
「こんなふうに……戻ってきてすぐ、呼び出しでも健診でもなくここにくる子は、とても珍しい……。我々に、そんなふうにフレンドリーに話しかけてくる子は、もっと珍しい……。」
「そりゃ、おじさんたちのこと全然恨んでないったら嘘になるよ。でも、んなこと言ってスタッフみんなにいちいち恨みごと言ってたらキリないじゃん、俺達。疲れるよ、そんな人生。」
「……そうか……。」
 ナカニシは、再びルナを見上げ、まぶしげに目を細めた。
 五年前にこの農場からルナを送り出したときは、彼がこんな風に立ち直ってここへ戻ってくることなど、ナカニシには想像もつかなかった。五人生き残った子ども達の中でも、一番ひどい状態でここを出たのがルナだった。正直なところ、何日ももたないだろう、と思っていた。
「そんなことより、」ルナは、頬杖をついたまま視線を上に寄せた。「今晩のおかずだよ、俺を悩ませるのは。……なんにしよう。」
「……強くなったな、ルナ。」
「そりゃぁ、養親になりゃね。」
「どうだ、養い子は? あれだろう、ハンニバルの……?」
「まんまハンニバルだよ。やることなすことヤツにそっくりだ。アタマ痛いよホント。」
「あのボーズなら、トールでさえ苦労してたからなぁ。」
「どうやったら、ああもロクでもないことばっか考えつくかなぁ。」
「君もそうだっただろ。君とアテナとハンニバルだよ、色々やらかしてくれたのは。……そうそう、カヌー小屋は、3年前にやっと新築したよ。焼失した前の小屋が建て直したばっかりだったし、理由があんまりアホらしかったから、なかなか予算が下りなくてね。」
「あはは……えーと……」
 ルナは、多少わざとらしく話題を変えた。
「子ども達の馬配は、もう決めたの、ナカニシさん?」
「まあ、ぼちぼちね。最終的には、子ども達を見てから決めるけど。」
「俺の子の馬は、決まってる?」
「ネフェルネフェル。」
「あ〜! やっぱりそうなの?! しかも即答するし! ナカニシさんの鬼!」
「よほど気の強い子でないと、乗りこなせないからな。まんまハンニバルなら、他に考えられないだろ。」
「ああ、そうだよ! あの子はすぐにネフェルを乗りこなして、そのうち馬場の柵なんか飛び越えて森まで散歩に行くようになるんだから! そうなってからそんな馬配にしたことを後悔したって遅いよ!」
 ルナは、悪態をつきながらひょいと牧柵を飛び越えて敷地に入った。ナカニシは、牧柵に背を向けて掃除の続きをはじめた。そして、ルナの方を向かずに
「馬房の位置、変わったんだ。南西の端だよ。」
と言った。
 ルナもナカニシの方を向かずにうつむき、
「……俺のこと、覚えてるかな?」
とつぶやいた。
「どうかな……普通は無理だな。……五年は長い。」
「忘れちゃってる?」
「……君も、ずいぶん大きくなったし……。……死んだカッツェは七年ぶりに会ってすっかり大人になった前の相棒をはっきり覚えていたようだがね、そこまでの馬も珍しい。……ナッティは、普通に利口な馬だから、どうだろうな……。」
「わかった……ありがと。」
それだけだけ言って、ルナは小走りに厩舎へ向かった。



――続く――




Thoroughbred top. next.




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