Ten Little Kids 1


 走っている夢を見た。
 果てしなく開けた無人の野には、立ちふさがる大きな崖も亀裂もない。緩やかな起伏を軽々と駆け上り、駆けくだる。手足は軽く、息もきれない。風は追い風。遠景はゆっくりと、足元の草原や潅木は急流のように後ろへ流れていく。首をめぐらせなくても三百六十度同時に視界に入ってくる。頭の片隅で「夢だな」とかすかに意識していた。
 どこかから乾いた硬質の音が、一定の間隔をおいて聞こえてくる。最初はかすかに。彼の後を追いかけてくるように、少しずつ高くなっていく。聞きなれた音のような気がした。
 落下する感覚があって、その音は、突然はっきりした輪郭を持った。アドルフは、目をあけた。天窓の中に、薄紫の明け方の空があった。白い星が弱々しく光っている。昨夜床につくころには、雨が降っていたはずだが、夜のうちにあがったらしい。起き上がると、手足に重力の感覚が戻ってきて、夢の余韻はふりはらわれた。
 小屋の外で、グルーム(養親)のマリアが薪割りをしていた。彼女は、すでに漆黒の髪をきりっと編んでいる。ほっそりした腕が、らくらくと斧を振り上げ、振りおろす。彼女はすぐに、アドルフが起きたことに気づいて微笑した。二人は窓越しに手を上げる、いつものあいさつを交わした。
 アドルフは、ベッドと身支度を手早く整えると、運動靴をつっかけて表へ飛び出した。上の農場からミルクと卵を受け取って来なければ、朝食にはありつけない。マリアが満たした水瓶から水をくむと、急いで、しかし彼女のしつけ通りきちんと石鹸を使って顔を洗った。早朝のこととはいえ、つい数日前と比べても、はっきりと水が冷たくなっている。短く切った暗褐色の髪に、形だけ櫛を通す。一応、鏡を見る。たいして変わらない。水筒に水を入れ、からのミルク瓶と卵のケースを小さなザックに詰める。
 「大きいほうのザックを持って行きなさい。」
マリアが手を止めて言った。アドルフは、質問の視線を向けた。
「昨日、エレンがとうとうミルクを出さなくなったって言ってたでしょ。」
マリアが応じ、アドルフはうなずいた。マリアは黒い瞳をまっすぐにアドルフに向け、いつもと変わりない落ち着いたアルトで宣言した。
「夕食は、ビーフシチューになると思うわ。」
アドルフは、二、三回まばたきをする間、暗褐色の瞳をまっすぐにマリアに向けていた。それから、ゆっくりとザックの中身を大きいほうのザックに詰め替える。マリアが再開した薪割りの音を聞きながら、村の共同井戸へ向かった。

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