Ten Little Kids 99



 採草地の中の道を、アドルフは走った。息を切らせてたどりついた墓地には、ヤスコの遺体の他に、ボーダハ夫妻とグロースヴァルダインしかいなかった。
 ヤスコは、軽く眉を寄せ、かたく口を閉ざしていた。唇が白くなければ、眠っているように見えただろう。アドルフは、ヤスコの前に膝をつき、その頬をてのひらで包んだ。すでに、死後硬直が始まっていた。彼は、手を離した。前の日、彼女の頬に触れたときには、温かくて柔らかくて弾力があった。アドルフは、自分の手をじっと見つめ、その感触を思い出そうとした。それから、彼女の肩の感触。ユリシュカやニケに比べると、ヤスコの体には厚みがなかった。小柄だということや、まだ胸がふくらみはじめてもいないことを考慮に入れても、少し前後に平たい体型だった。彼女の薄い肩は、アドルフのてのひらに、ちょうどよく収まった。
 やがて、マリアが到着し、少し遅れてリヒャルトとニケも来た。ニケは、アドルフの向かい側に座った。彼女は、ヤスコにほほ笑みかけた。
「……すぐ行くから……待っててね。」ヤスコが生きていたら、たしなめただろう、と思いながら、アドルフは黙っていた。何か言葉を発する気力は、なかった。
 草の上に積もっていた雪はほとんどとけて、地面は乾いていたが、冷気が脚からはい上がってきた。空は薄く紫がかった灰色の雲に覆われ、風は刺すように冷たかった。マリアは、持ってきたアドルフのパーカを彼に着せかけた。彼は、動かなかった。マリアが、彼の手をとってパーカの袖に通した。アドルフは、されるままになっていた。
 白い布から少しだけヤスコの前髪がはみだしていた。アドルフは、自分の首筋をかすめた彼女の髪の繊細な感触を思った。漆黒の光沢。石鹸の香り。風になぶられて重力のないもののようにふわりと舞い上がり、汗にぬれた頬にはりつくつややかな黒髪。ふっつりと切りそろえられた髪の裾からのぞく、均一に日焼けした細いうなじ。
 リヒャルトがニケの肩に手をかけた。ニケは立ち上がり、場所をあけた。アドルフは、リヒャルトに抱き上げられて墓穴の底に下ろされるヤスコを、ぺたんと座り込んだまま眺めていた。
 最初の土をかけたあと、ニケは、アドルフにシャベルをさしだした。アドルフは動かなかった。そちらに視線を向けようともしなかった。ニケは、黙ってリヒャルトにシャベルを返し、アドルフの隣で膝をかかえた。リヒャルトもマリアも、黙ったまま墓穴を埋め始めた。
 少しずつ土をかけられていくヤスコの姿を、アドルフは、じっと見つめ続けていた。彼の頬に触れた、彼女の柔らかな唇。手首を握り締めた、力強いてのひら。まっすぐ見つめてきた瞳。光に透ける黒曜石の虹彩に、影をおとす長いまつげ。困惑の微笑。有頂天の笑顔。彼の手から永久に失われていったものを、アドルフは、一つ一つ数え上げていた。
――アドルフ、あたしを置いて行っちゃわない?
――行っちゃわない。ヤスコは、俺を置いて行っちゃわない?
――行っちゃわない。
――約束。
――約束。
 やがて、八つめの盛り土が、墓標の側に形作られた。作業を終えたマリアとリヒャルトが、子供たちを振り返った。ニケは、立ち上がってアドルフを見下ろした。アドルフは、動かなかった。ニケが、手をさしのべた。
「行こうよ、アドルフ。」アドルフは、盛り土に視線を据えたまま、答えなかった。ニケは、アドルフの正面に片膝をついて、彼の両肩をつかんだ。アドルフは、顔を上げた。彼の視線が自分の身を突き抜けて遠くへ向けられているのを見て、ニケはマリアを振り返った。
 だが、彼女より先に、グロースヴァルダインがアドルフに歩み寄った。ニケは、立ち上がり、アドルフを背にして身構えたが、グロースヴァルダインはかまわずに近寄ってきた。ニケは、鋭く蹴りを出した。グロースヴァルダインは、最小限の動きでそれをかわし、擦れ違いざまにニケの背を軽く押した。ニケはたたらを踏み、駆け寄ってきたリヒャルトに、危うく抱き留められた。
 グロースヴァルダインは、なにごともなかったかのようにアドルフの前に立つと、片手で彼の襟をつかんで引きずり起こした。アドルフは、爪先で地面をこするようにして、グロースヴァルダインの手に吊り下げられた。瑠璃のように青い虹彩が、アドルフの目の前にあった。間近で見ると、確かにそれは生き物の目だった。彼の瞳に映る生気のない顔を、アドルフは大きな感情の動きもなく見つめていた。
「よく、もちこたえている方だと思っていた。」グロースヴァルダインは呟いた。「俺の、見込み違いか。自分の女が死ぬと、これか。」
彼は、予告なく手を離した。アドルフは、物のように崩れ落ちた。
「立て。」グロースヴァルダインは、静かに命じた。「立って、普段通りふるまえ。」
 しおれたオーチャードの上に横たわったまま、アドルフは動かなかった。一昨日、ヤスコはアドルフに、逃げよう、と言った。その彼女を押しとどめて静観させたのは、アドルフだった。普段通りにしているほうが、生き残る確率が高いだろうと。
 意識の片隅の、さめた部分が、アドルフに警告を発していた。――お前は、誰の足元にうずくまっている?その男は、一番、そうしてはならない相手ではないのか?――だが、意識のその部分と、アドルフの体とをつなぐ回線は、完全に断ち切られていた。
 グロースヴァルダインは、爪先でアドルフの体を転がしてあおむかせ、みぞおちのあたりを、かかとでつついた。彼の表情は冷静だったが、その目からは、自分を押さえる気持ちのかけらもないことが、読み取れた。それでも少しの間、彼は、アドルフの反応を待っていた。アドルフは、この次の瞬間にはグロースヴァルダインのかかとが自分の内臓を破裂させるだろう、と感じた。だが、抵抗したりかわしたりするのは、億劫だった。彼は、グロースヴァルダインから目をそらした。
 リヒャルトの腕をふりほどこうともがいているニケの姿が、アドルフの視野に入った。リヒャルトは、唇をかみしめて、不安げにこちらを見つめている。マリアが、口を開きかけた。グロースヴァルダインのかかとが、ふっとアドルフの腹から離れた。
――来る……―― 


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