椅子から立ち上がった瞬間、目の前を黒い点がちらつき、視界を覆った。ざあっと耳鳴がして、周囲の音が遠くなった。アドルフは、とっさにテーブルの端をつかんで倒れ
るのを防いだ。頭を低くしてめまいをこらえていると、視覚と聴覚は少しずつ回復した。アドルフは、息をついてゆっくり上体を起こした。彼をじっと見下ろしていたグロース
ヴァルダインと、目が合った。
「ここから外に出たら、君は、マリアの養い子としての評価を受ける。」グロースヴァルダインの声が低くなり、視線が尖った。「恥をかかせるな。」
それだけ言うと、彼は、くるっと踵を返して歩き出した。
アドルフは、うつむいて唇を噛んだ。その背中を、マリアが、てのひらで軽く叩いた。二人は、グロースヴァルダインのあとに続いて、小屋を出た。
月が、菜園に積もった雪を青白く照らしていた。カンテラの類いは、必要なかった。
細い農道を、三人は一列になって進んだ。姿は見えなかったが、周囲に複数の人間の視線を感じた。アドルフは、意識して背筋をのばした。自分達を包囲しているのは、おそ
らく例の兵隊たちだろうとは思った。が、ここに集結しているらしい農場の犬の群れの気配に邪魔されて、アドルフには、相手の具体的な人数や力量まではわからなかった。
彼は、ちらりとマリアを振り返った。彼女なら、そこまで把握できているだろう。
道は、昼間とけた雪にぬかるんだ土が再度凍結して、ひどく歩きにくくなっていた。グロースヴァルダインも、マリアも、その道をなにごともなく歩いている。アドルフは、
同じように歩こうと神経をはりつめた。
井戸前のあずまやに、青鹿毛の馬が数頭、鞍を外され、馬服を着せられて繋がれていた。馬たちは、白い息を吐いて静かに鼻を鳴らし、通り過ぎる三人をじっと見つめてい
た。その陰に、かすかに、人の姿が確認できた。
採草地の低い丘の上に、数人の人影が見えた。そこが目的地らしかった。近付くと、ボーダハ夫妻と、グロースヴァルダインの副官の女、ほかに四五人の兵隊が、これは身
を隠さずに立っていた。アドルフたちは、無言で彼らと対面した。
「少し、お待ち下さい。」副官が、マリアに言った。朝方、アドルフを相手にしていたときとは別人のように、丁寧で冷淡な口調だった。「もう一人、立ち会います。」
「来られるのですか。」応じるマリアの声も、かたい感じがした。「多忙な方と、お伺いしましたが。」
「なんとかスケジュールを調整できたそうです。」
沈黙が訪れた。風が強かった。歩いてあたたまっていた体が、冷え始めた。アドルフは、目立たないようにマリアに身を寄せた。
西の森の方から、かすかにエンジン音が聞こえた。それは、村の中は通らず、採草地の真ん中を突っ切って近付いてきて、丘の頂上で静かに停まった。オフロード用のごつ
いタイヤをはいた車の運転席から、白い手袋をはめた、ベンツかリンカーンにでも似合いそうな運転手が降りてきた。アドルフは、めまいを感じた。運転手
は、後部座席のドアを恭しくあけた。
暗い色のスーツを着た長身の男が降り立った。容易に視線をそらせないような美貌の持ち主だった。鋭角的に整った顔だちは、グロースヴァルダインと共通するものがあっ
た。白磁の膚、暗褐色の髪、月明りで定かではないが、おそらく同じ色の瞳。どこかで見覚えがあるような気がした。アドルフは、マリアの顔を見上げた。彼女は、うなずい
た。
「テオドール・シュレッケンバッハ氏……お前の、実父。」