Ten Little Kids 138



 朝方、切れ切れの睡眠から、アドルフは叩き起こされた。全身がぎしぎし痛み、気持ちも体も、自分のものではないかのようにぼんやりとしていた。
 起こしに来た者が誰か、一瞬わからなかった。その日、グロースヴァルダインは、厩舎の作業着ではなく、ブルーグレーのスーツを着ていた。ブロンドの髪を、思い切りショートにしていて、見た感じさわやかな好青年になっていた。尋常でない目付きだけが、その印象を裏切っていた。
 医務室へ連れて行かれると、副官の女が診察を終えたところだった。臙脂の開襟ブラウスの胸元からテーピングがのぞき、右の耳介にガーゼがはられていた。アドルフは、ナカニシの顔をちらっと見た。ナカニシは、気分がすぐれないようすで、視線を落とした。
 女は、アドルフが入ってきたのを見て、気怠そうに診療台から立ち上がった。顔に血の気がなかった。グロースヴァルダインは、なんの表情も浮かべずに、女の顔を見下ろした。
「立てるのか。」
「……おかげさまで。」
「今日は、無理しなくていいぞ。」
「搬送が終わるまでは、持ち場を離れるつもりはありません。」
「ああ、そうだ。」グロースヴァルダインは、琥珀のピアスをポケットから取り出し、彼女に手渡した。「返し忘れていた。」
「わざわざどうも。」
「こっち、外さないんだね。」
グロースヴァルダインは、かすかに笑って女の左耳に手をやった。女は、ぴくっと体を震わせたが、動かずに硬い微笑を返した。
「こっちの耳は、無事ですから。」
「気丈だね、君は。」
グロースヴァルダインは、女の耳に軽くキスした。女は、くすくす笑った。
 背後に二人のやり取りを聞き流しながら、アドルフは、黙って診療台の端に腰掛けた。当直で徹夜だったらしいナカニシは、深いため息をついてアドルフの左目の下に軽く触れた。アドルフは、歯の間から、短く急激に空気を吸い込んだ。
「殴られた?」
「……」
「よく冷やしたか?」
「……」
「どこか、特にひどく痛むところはある?」 「……」
「傷口が熱いような感じはしない?」
「……」
 アドルフは、じっと前方に視線を落としたまま、唇を真一文字に結んでいた。半分伏せられた長いまつげが時折ゆっくりと上下する以外、表情は動かなかった。ナカニシは、問診を諦めて、黙々とアドルフの傷の具合を調べた。採血と、ほかに二本注射をする間だけ、アドルフの体にストラップをかけた。きれいに包帯を巻き直し、右腕を三角巾で吊りながら、こうすると少しは楽だろう、と返事を期待しない口調で言った。最後に、用意してあった何種類かの錠剤をプラスチックのケースに入れながら、アドルフに説明した。
「これ、抗生物質。かなり消化器に悪いから、必ずこっちの薬と一緒に……朝と晩、メシの後にね。このまま化膿しなければ、刃物の傷は、ほどんど残らないからね。サボらず飲むんだよ。それから、こっちは痛み止め。……これしか出せないんだ、ごめん。ガマンできなくなったら飲んで。……シップの替えも要るな。ちょっと待ってくれ。」
「……鎮静剤……。」
「え?」ナカニシは、アドルフが口を開いたことに驚いて顔を上げた。「なに?」
「……鎮静剤か、睡眠剤、入ってるんじゃないの。密かに……。」
ぼそぼそ呟きながら、アドルフは、耳の下に手をやった。顎がだるくて、ひどくしゃべりにくかった。ナカニシが、錠剤に視線を戻して答えた。
「……入ってないよ……。メシにも薬にも。」
「注射にもね。」
「ほんとうに、入ってないんだ。」
「………」
「……そりゃあ、君におとなしくしててほしいのは事実だけど、余程のことがないかぎり、純血種には、そういう薬を処方しないんだ。……耐性がついて効きにくくなったら、いざというときに始末に終えなくなるから……。信頼しろとは言わない。信用してくれ。」
アドルフは、左右不対称な笑みを浮かべ、黙って薬を受け取った。
 グロースヴァルダインと副官が、両脇に付いてアドルフを立たせた。アドルフは、持たされたバッグのファスナーを開け、鎮痛剤のケースを選び出して、副官の女に差し出した。蒼白な顔の女は、困惑したように彼を見下ろした。アドルフは、まっすぐ前を向いたまま、あまり口を開かずに言った。
「ピアス……むしられたんだろ?」
「ご推察どおり。」
「……やる。」
 沈黙が走り抜けた。副官の女も、グロースヴァルダインも、虚をつかれたようにアドルフを凝視していた。しばらくして、女が、眉間に縦皺をよせて苦しげに笑いだした。
「最高だわ。」彼女は、胸骨のあたりをてのひらで押さえていた。傷にひびいているようだった。「それで、何の意図も持ってないところがすごい。」
アドルフは、眉を寄せて、斜めから女を見上げた。
「…………意図?」
「私のキゲンをとろうとか、油断を誘おうとか、これにヤバイ薬は混入されてないか試そうとか……私が一瞬疑ったような、そんなこと全然考えてないんでしょ、君。なんだか私が痛そうにしてるから痛み止めをあげよう、と思っただけなんだわ。マリアの、『いい子』……なんて、かわいいの。……君は私を殺したいんじゃないかと思ってたんだけど……心配してくれるの?」
「殺す。……俺があんたより強くなるまで、死ぬな。」
アドルフは、ささやくように言った。高ぶった感情を強く押さえつけたために、震えてかすれる声。本人は全く意識していなかったが、毒のように甘い響きを含んで官能的だった。その声を自覚的に使いこなすには、彼はあまりにも幼かった。だが、この女にとっては、それが無自覚であることこそ魅力だった。彼女は、急に笑いやんで、遠い目をした。
「……悪くない……。」再び、女の目の焦点が、アドルフの顔の上に合った。視線は、なめるように彼の体を這った。「一撃で……ケリつけてくれそう……。」
 左の手首が突然強い力で握り締められ、アドルフは女に引き寄せられた。バッグが床に落ちて、プラスチックのケースが散乱した。吊られた右腕を上げて自身をガードしようとしたが、全く問題にされなかった。きれいにマニキュアされた爪が彼の顎に食い込み、紅い唇が眼前に迫った。
 次の瞬間、グロースヴァルダインが、女の髪をつかんでアドルフからもぎ離し、床に叩きつけていた。 「いい度胸だ。」
「いたんですね。」女は眉を寄せ、仰臥したまま挑発的に笑った。「忘れてました。」
彼女は、立ち上がりかけて膝と片手をつき、胸骨のあたりを押さえてうつむいたきり、動けなくなった。しばらく呼吸も止めていたようだったが、小さくあえぐような息をついて、床の上に崩れた。
 気付くと、無意識に安全圏を求めて、アドルフは、グロースヴァルダインの胸元に頬をつけていた。グロースヴァルダインは、片腕でしっかりとアドルフの体を抱え込んでいた。アドルフの無表情の仮面は、粉々に砕けた。彼は、身をよじり、手で顔を覆って、床にずるずると座り込もうとした。グロースヴァルダインが、それを許さなかった。彼は、背後からアドルフを抱きすくめて、耳元でささやいた。
「簡単に壊れるな。マリアを無駄死ににさせたいのか。」


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