Ten Little Kids 171



 目覚めると、ベッドサイドの椅子に、女が座っていた。
「……マリア?」
自分のものとは思えないようなかすれた声で呟いてから、アドルフは、その女がマリアではないことに気付いた。包帯が、どちらかの目の上を覆っていて、視界が狭かった。
「マリアじゃないんだ。」女の声は、沈んでいた。「ごめん、アドルフ。」
 見覚えのある天井を、アドルフは、ぼんやりと眺めた。医療センターのベッドに寝かされていた。彼は、力なく切れ切れにささやいた。
「……もう、ちょっと……近付いてよ……グリゼルダ……。そこだと、顔、よく見えない……。……俺……今……。」
 グリゼルダは、椅子を動かして、アドルフの視界に入った。アドルフは、しばらくの間じっと彼女を見上げていた。
 トールと同じように、彼女もまた、アドルフを通してもっと遠くを見つめているように思えた。だが、すっと伸ばされた背筋からは、自分を制御しようとする意思が感じられた。アドルフは、少し安堵した。そして、トールをグロースヴァルダインに引き渡してしまったことを思った。アドルフは、少しうわずった声で尋ねた。
「……俺、間違ってた?」
「しかたないよ。」グリゼルダは、察して答えた。「そうしなければ、お前もクリシュナも、巻き添えくってたんだ。」
「……じゃなくて……俺……トールが、ほんとは……死にたがってるように……」口の中の痛みが、堪え難くなってきた。アドルフは言葉を切り、眉をしかめた。「……死にたがってるように…見えて……俺のしたこと、間違ってた?」
「うん。」グリゼルダは、はりつめた口調で言った。「彼も、子供を殺して生き残ったんだ。それがつらくて楽になりたいなんて、身勝手だよ。生きて苦しめ。」
 それは、マリアを殺して生き残ったアドルフの胸に、深々と突きささった。アドルフは、声にならない声で、グリゼルダの言葉を反芻した。グリゼルダは、小さくかぶりをふって、彼の前髪を優しくかきあげた。
「……マリアは、えらかったよ。本当に大切なものが何か、はっきりわかってて……最後まで判断を誤ることがなかった。……うらやましい。」
 アドルフは、焦点を失った瞳で、ぼんやりとグリゼルダを見上げていた。その唇は、やはりイキテクルシメという言葉をなぞっていた。グリゼルダは、痛みをこらえる表情で、アドルフの注意が再びこちら側に向くまで、ずっとその髪をなでていた。
 グリゼルダは、アドルフが多少なりと落ち着くのを待ってから、彼が意識をとりもどしたことを医療スタッフに告げに立った。彼女は、去りぎわに、ふっとつけくわえた。
「さっきまでユリシュカがいて、お前の顔見て泣いてたよ。……女の子に心配かけちゃだめだよ。」
 少し時差があって、グリゼルダの声は、アドルフに届いた。アドルフが、それに対してなにがしかの反応をするまでに、さらに少しの時を要した。
「……ごめん……。」
「ユリシュカに、謝んな。……あの子も……お前のこと、ほんとに好きなんだ。」彼女は、再び遠くを見るような目でアドルフを見下ろした。「……ごめんね。」
グリゼルダは、部屋を出た。
 彼女と入れ替わりに、ナカニシが入ってきた。彼は、椅子にかけると、悲しげな目でアドルフの顔を見た。
「このまんま、入院。完治するまで、ここから出ちゃだめだ。……わかるね?」
 ぼんやりと天井を見上げて、アドルフは、グリゼルダの言葉の意味を考えようとしていた。ひどく疲れていて、なにも考えることができなかった。ナカニシが、きゅっと眉を寄せて自信なげに呟いた。
「頼むから、これだけ教えてくれ。キゲンが悪くて返事してくれないのか?それとも、頭うったせいで、ぼうっとしてるのか?」
 アドルフは、ゆっくり二三度まばたきしてから、尋ねた。
「……クリシュナ……は?」
「独房。」
ナカニシは、ふうっとため息をついて、やや表情をゆるめた。アドルフは、また二三度まばたきした。
「……どうして?」
「私闘は、禁止なんだ。……君も、最低限必要な防御を怠ったかどで、警告うけるよ、きっと。」
「………。」
「彼ね、処分自体よりも、君にケガさせたことで、ひどく落ち込んでたそうだよ。」
「………。」
「君も、自分のケガより、彼の方が心配なんだね。」
 返事は、なかった。ナカニシは、黙って、ひととおりアドルフの体を診た。返事を期待しない口調で、他に痛いところはないか尋ねた。アドルフは、ちらっとナカニシに視線を向け、視線を外した。ナカニシは、了解のしるしにうなずいて、立ち去った。


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