Vanishing Twin 1




 ベッドから降りて。
 顔を洗って。
 髪をといて。
 鏡の中の自分を見つめながら、ヨゼフは、いつものように心の中で「しあわせのじゅもん」を唱えた。

 ぼくはしあわせなこどもです。
 ひろくてりっぱなおうちにすんで、おいしいごはんをたべています。
 やさしくてびじんのおかあさんがいて、ゆうしゅうでびなんしのおとうさんがいます。
 かわいがってくれるおじいちゃんもいるし、おうちはおかねもちです。
 ほしいものはたいていかってもらえるし、やりたいことはやらせてもらえます。
 ひとよりはやくべんきょうをはじめたから、せいせきもいいです。
 うんどうしんけいにもめぐまれて、クラブチームの1ねんせいのなかで、たったひとりのレギュラーです。
 おとうさんにのびなんしなので、おんなのこにもにんきがあります。
 ぼくはしあわせなこどもです。

 最近、じゅもんを唱え終わるまでに時間がかかるようになってきた。心の中で別の声がして、色々と邪魔をするのだ。

 ひろくてりっぱなおうちに……
――ひとりで置き去りにされてるよね。
 おいしいごはんを……
――お母さんじゃなくて料理長のね。
 ほしいものはたいていかってもらえ……
――大人が許すものしか欲しがらない、おりこうちゃん。
 ひとよりはやくべんきょうを……
――させられたよね。
 おんなのこにもにんきが
――友達といえる子はいるの?

 「しあわせのじゅもん」を邪魔する自分の心の声を、ヨゼフは「あくまのささやき」と呼んでいた。これだけ恵まれた環境にいて、そんな不満を持つ自分が許せなかった。だが、「あくまのささやき」は段々大きくなってくる。

 かわいがってくれるおじいちゃんが……
――甘やかしすぎて、お前をダメにするよ。
 りっぱでびなんしのおとうさんが……
――年に何回うちに帰ってくるっけ?
 やさしくてびじんのおかあさんが……
――いつ退院してくるの?
「すぐだよ!」ヨゼフは思わず声に出した。「可愛い弟か妹を連れて、すぐ退院してくる!」
 そしたらかぞくがふえて、ぼくはさびしくなくなる。
――そうだよね、忙しいお父さんがたまにしか帰ってこなくても、お母さんの心がお父さんのことでいっぱいであまり構ってもらえなくても、寂しくなくなるよね。
 おとうさんもおかあさんもぼくをあいしてくれてる。
――ほんとにそうおもう?
 おとうさんもおかあさんもぼくをあいしてくれてる。
――ところで、赤ちゃんを産むだけなのになんでこんなに早くから入院してるの?
 おとうさんもおかあさんもぼくをあいしてくれてる。
――どうしてお見舞いに行っても会ってくれないの?
 おとうさんもおかあさんもぼくをあいしてくれてる。
――ほんとに妊娠しただけなの?
 おとうさんもおかあさんもぼくをあいしてくれてる。
 おとうさんもおかあさんもぼくをあいしてくれてる。
 おとうさんもおかあさんもぼくをあいしてくれてる。

 しばらく鏡を睨みつけながら、頭をからっぽにしてその一文だけを自分に言い聞かせた。

 「おや、朝っぱらから自分に見とれているな?」
部屋のドアのあたりで、微笑を含んだ声がした。ヨゼフは動揺を隠し、照れたような笑みを作って振り返った。
「おはよう、おじいちゃん。」



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