小さな宇宙

――後編――


 ――忘れられているだろう。
 ルナは、自分にそう言い聞かせた。
 ――だって、ナッティは馬だし、俺だってずいぶん背も伸びたし、髪も伸びたし、五年は長いし……再会したときの期待が大きすぎると、がっかりするにちがいない。
 ――五年も違う子どもの相棒やってたら、俺のことなんかすっかり忘れてるよ。ブラック・ビューティみたいな馬は物語の世界にしかいないんだ。(でも、カッツェは前の相棒を鮮明に覚えてたって……)
 ――ナッティは、見知らぬ者への警戒で耳を伏せるだろうか。それとも、初対面の者への好奇心から近寄ってきてくれるだろうか。とにかく、よけいな期待はしないで、どんな態度をとられても傷つかないように覚悟しておこう。万が一、俺を覚えていてくれたら、それこそ奇跡だ、くらいに思って喜ぼう。
 厩舎の扉を閉めると、明かりは高窓から差し込む陽光と、馬房の外窓から通路側の窓ごしに入ってくる光の他ない。ルナは立ち止まって、薄暗がりに目が慣れるのを待った。通路の両側に並んだ馬房で、午前の運動を終えた馬達が無心に飼い葉を食む音が響いていた。静かだった。
 ゆっくりと、ルナは歩き出した。教えられた南西の端の馬房。窓からきれいな栗毛の尻が見えると、ルナの心拍数が跳ね上がった。  近づいてくる足音がすぐ近くで止まったのに気づいてか、その馬房だけバリバリと飼い葉を咀嚼する音がぴたりと止まった。ナッティは振り向いた。
 かなり長い間、二人は視線を合わせたまま固まっていた。ルナは祈るような気持ちで、ナッティは……
 ナッティは警戒で耳をふせたりしなかった。馬房の向こうはしに逃げたりもしなかった。たくましい尻を向け、飼い葉をくわえたままの顔だけ振り返って、ルナにまっすぐ視線を返していた。
 しばらくすると、ナッティはむこうを向いて食事を再開した。腹が減っていたのだ。けれど、ふたくちみくちフスマを噛むと、また首をルナに向けた。また、飼い葉桶に頭を突っ込んだ。また振り向いた。

 ナッティは、混乱していた。

 記憶の片隅に、きらきらしてさらさらしてふわふわと風に揺れる銀色のものがいつも自分の周りにまとわりついている優しい光景が浮かんだ。けれども、扉についた窓からこちらを見つめている銀髪の青年の懐かしい――懐かしい?――まなざしと、その光景を結びつけるものが何なのか、彼にはわからなかった。
 淡い色の瞳が、祈るように自分を見つめている。ナッティは、その瞳を知っていると思った。最近見かけなくなった相棒をなぜだか思い出していた。けれども、もっと低い位置にあったような気がする。それに、その瞳は黒かったような。あるいは、深い緑色だったような。
 ナッティは、飼い葉桶の前を離れた。ぐるりとユーターンして、扉の窓から首を出すと、見知らぬ青年は見覚えのある泣きそうな微笑で彼を迎えた。なにか強烈な懐かしさを覚える銀色のものに鼻面を近づけてフンフンと嗅いでみると、やっぱり知っている匂いがした。なにかをこらえるように震えている銀色のものからちらりとのぞく白いものを、思い切ってなめてみた。すると、それは激しく笑い出した。
「やめて、ナッティ! くすぐったいよ! 耳はダメだって!」
 ナッティの記憶の中で、なにかがかちりと音をたててかみ合った。彼は確信を持って顔を離し、それを見つめた。
 そのとたん、ナッティの確信は崩れた。
 何を確信したのかも、わからなくなった。
 見知らぬ青年は、笑いやんで苦しそうに(でも嬉しそうに)深呼吸している。
「思い出してくれた、ナッティ?」
 ナッティは、首をかしげた。
「やっぱり無理?」
 ナッティは、なんだか青年が泣いてしまうような気がして内心少し慌てた。こどもに泣かれるのは苦手だった。でも、目の前にいるのは、こどもではなかった。泣き虫な青年は――なんで知ってるんだろ?――やっぱり泣きそうに微笑んでいた。
「いいよ、そんなにすまなそうな顔しなくても。たいしたことじゃないんだから。」
 本当に、たいしたことじゃないんだ――ルナはそう思って、ナッティの顔をそっと抱いた。
 生命を終えたものが大地に還り世界の一部になるように、去っていったものたちが忘れられていくことはその記憶が消滅してしまうことと同じではない。
 ナッティの中でルナは、ともに時をすごした何人かの小さな相棒たちと重なり合い、時とともに輪郭が定かではなくなっていくだろう。
 それは、初春の光の中で食べたみずみずしい青草や、たくさん走って一汗かいたあと足をひたした小川の水や、仲の良い仔馬たちと駆け回ったゆるやかな丘のある放牧地や、暖かく柔らかな母馬の乳や、その他たくさんの心地よい記憶と混然となってゆっくりと広がっていき、ナッティの小さな宇宙をとりまく大気になる。
 ルナは、ナッティの体温を十分に堪能すると、最後に鼻面に軽くキスして身を離した。
「さよなら。」
 くるりとこちらを向けて遠ざかろうとする背中に、ナッティの内側から突然せっぱつまった名づけようのない衝動が首をもたげた。ナッティは、反射的に銀色の後ろ髪をくわえた。
 ルナは振り返った。
 ナッティの口から、後ろ髪が、はらりと離れた。
 ちがう。あのこじゃない。
 見知らぬ青年は、寂しげに微笑んで歩み去った。

 閉めた扉に背中をつけて何度もまばたきしながら、ルナは外の明るさに目が慣れるのを待った。刺すような冷たさは去ったものの、まだ少し緊張感の残る風は、干草の匂いがした。
 ゆっくりした足取りで厩舎をあとにしながら、ルナは振り返った。並んだ馬房の窓から、食欲を満たして好奇心を復活させた馬達がずらりと顔を出している。ルナは笑ってしまった。それから、南西の端の窓に栗毛のクォーターホースの顔を認めて、立ち止まった。
「ナッティ!」
 ルナが叫ぶと、他の馬たちは、みな一斉に馬房の中に首を引っ込めた。ナッティだけが厩舎の端の窓からひょこんと顔を出して、ルナの見送りを続けていた。
 浅緑の放牧地の牧柵沿いにしばらく歩き、箒の目のついた厩舎前の庭を通り、事務所の角を曲がって互いの姿が見えなくなるまで、銀髪の青年は、何度も何度も振り返っては栗毛の馬に手を振っていた。



――END――




Thoroughbred top. back.




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