ギガトンにハマる・後編




 天皇賞では得意の逃げの形にも持ち込めなかったギガトンだが、そのへんの力の足りなさこそが、私にとっての彼の魅力だったのかもしれない。私はギガトンを追い続けた。

「好きな馬はギガトン。」

競馬好きの同僚(例外なくおじさん)などにそう言うと、たいてい不思議がられた。
「なんでまたギガトン?」
競馬に興味のない女性の同僚の、悪意のないコメントは、さらにシビアである。
「うちのダンナ、送別会のしおりの幾狭さんのページ見て『ギガトンが好きなのかぁ』って言ってたから、どんな馬か聞いてみたんだけど、たいした馬じゃないんだって?」
(複数の人に同じこと言われた。なぜわざわざそれを私に言ってくる?)
 そのような同僚達ではあったが、ギガトンが人気薄で2着して万馬券になったときは、みなさま祝福してくださいました。その日ワタクシはいつものように学校帰りに桑園に直行していたのだが、職員室のTVで観戦していたらしき同僚のおじさまたちが、わら半紙に「おめでとう」の寄せ書きをしてワタクシの机上に乗せておいてくれたのであった。月曜日に出勤してその寄せ書きを発見したときのワタクシのヨロコビとメマイを理解していただけるであろうか。(このネタ、某別冊宝島競馬読本シリーズの読者ページに何の気なしに投稿したら掲載されてしまった。まさか載ると思ってなかったから本名で…)



 こうして追いかけているうちに、彼の将来のことが気になるようになりはじめた。
 「GU阪神大賞典3着」がカンバンでは、種牡馬になるってことは有り得ない。でも、これだけコツコツ走ってけっこう賞金を稼いでいる馬だし、「引退したらまっすぐカンヅメ工場」とかそういうことには多分(絶対じゃないところが辛い…。)ならないだろう。平均以上の競争成績ってことは運動神経もアタマもそこそこいいんだろうし、働き者であることには疑う余地はないし、聞くところによると気性はたいそう素直で扱いやすいという話だし、引退後は「乗馬になる」というのが穏当なんじゃないだろうか? もし乗馬になるんなら、北海道に来る確率も高いし……。そこから一気に私の思考は飛躍する。

「そうだ、乗馬をはじめよう!」

 なにを血迷ったのか、下手をするとミスタートウジンなみにエンエンと現役競走馬を続けるかもしれない彼が引退後にもし乗馬になった場合にそなえて、私は乗馬をはじめたのである。――もし本当に乗馬になったとして、元競走馬だとシロートには乗りこなせないかもしれない。しっかり乗れるようになっておこう。――けっこう真剣にそんなことを考えた。
 とはいえ、あいかわらず臨時採用で身分が安定しないし、仕事が忙しくて定期的に通える保証もないから、乗馬クラブに入るのも気がひける。そんなわけで、ノーザンホースパークの「体験乗馬」(1鞍25分)に通いつめるようになる。30回くらい通ったあたりで「騎乗」(1鞍45分)に昇格した。
 車の免許を持っていないから、交通手段は高速バスである。千歳空港でノーザンホースパーク行きの無料送迎バスに乗り換える。ノーザンの入り口まで来ると、無料送迎バスに係のおじさんがやってきて乗客から入場料を集める。「体験乗馬」のうちは普通に500円払わなければならないのだが、「騎乗」になると入場料金がかからなくなる。毎週毎週通っているうちに、顔パス状態になった。ある日、友人とノーザンホースパークに遊びに行って、ゲートのところで普通に料金を払ったら、係のおじさんにけげんそうな顔をされた。
「あんた、ここで働いてるんじゃなかったっけ?」
――休日に来るバイトの人だと思われていたらしい。
 そんなわけで競馬以上に乗馬にはまっていったのだが、ギガトンが走る日は欠かさず桑園に行って彼の馬券を買った。夏の条件変更で条件馬に格下げになったギガトンが、オープン馬に返り咲くことを祈った。いつか彼が桑園で走ることがあったら、彼のハズレ馬券で横断幕を作ってパドックに出そう。そんなおバカなことも考えた。


 丹沢ステークスを勝って、もう1回1600万下のレースを勝てばオープン馬、というとき――丈夫さが売りの彼が、珍しく骨折した。
 「今週も出走していて当たり前」の彼が、数ヶ月の休養。寂しいというより、ものすごい違和感があった。
 その後、復帰するも惨敗。
 1999年7月6日、ギガトンは引退した。
 1999年7月6日、短期の臨時採用が終了して、私は無職になった。




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